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大阪地方裁判所 昭和61年(ソ)4号 決定

抗告人

瀬戸巖

右抗告人代理人弁護士

美並昌雄

主文

本件抗告を棄却する。

理由

一抗告人は、抗告の趣旨として「原決定を取り消す。本件公示催告の申立を許す。」との裁判を求め、その理由として次の要旨のとおり主張した。

1  抗告人は、昭和六一年八月一四日午後八時ころから同月一五日午前一一時ころまでの間に、大阪市住之江区粉浜一丁目一一―一先路上において、駐車中の車両の中から、別紙目録記載のとおりの金額、支払期日、振出日、振出地、受取人の各欄には未だ何らの記載もせず、振出人欄にのみ「茨木市大池二丁目三二番九号実商店代表者瀬戸巖」と記名し、押印は未了の約束手形一五通、および金額、振出日、振出地の各欄は未記載で、振出人欄にのみ約束手形と同様に記名し、押印は未了の小切手六〇通(以下、右手形、小切手を合わせて本件手形小切手という。)を、銀行に届け出てある約束手形、小切手用の印鑑とともに何者かに盗取されたとして、除権判決を求めるために、昭和六一年八月二二日、茨木簡易裁判所に対して公示催告の申立をした。

2  右申立に対して同裁判所は、昭和六一年一〇月九日、「本件手形小切手はいずれも申立人の記名はあるが押印はなく、手形または小切手の振出人としての署名行為が完成されているとは言えないのであつて、盗難のときにおいては約束手形または小切手として成立しているとは言えず、また仮にその後に印鑑の盗用によつて約束手形用紙または小切手用紙に押印され流通におかれたとしても、それは偽造手形または偽造小切手であつて、特段の事情のないかぎり盗難者は約束手形または小切手上の義務を負うことはないから、申立人には本件手形小切手について公示催告の申立権はない。」との理由により、右申立を却下する決定をした。

3  しかしながら、本件においては、抗告人は、将来振出原因が生じたときに備え、約束手形・小切手たることを認識して本件手形小切手の各振出人欄に記名を済ませており、これと届出印鑑とを同時に盗取されたことにより、真正な約束手形・小切手たる外観の作出が容易になされうる事態を招いたものである。そして届出印鑑が冒用されて真正な手形・小切手として流通におかれ、その取得者から責任の追及を受けた場合には、抗告人は偽造の事実および右取得者の悪意または重過失を立証しなければ、責任を免れない。

そして、本件手形小切手の場合、記名は抗告人のゴム印によつてされたものであり、また本件手形小切手上に顕出される印影は、それがなんぴとの押印行為によつて顕出されたものかを識別することができないから、抗告人が偽造の事実ないし取得者の悪意・重過失を立証することは極めて困難である。

また手形・小切手の取引の安全の保護という今日の一般的傾向からすると、被偽造者は特段の事情がないかぎり手形・小切手上の責任を負わないという原則と例外が、実際上は逆転して現れるのであつて、抗告人が本件手形小切手について責任を問われる虞れが多分にある。

よつて本件においても公示催告が許されるべきであり、原決定は取り消されなければならない。

二そこで本件手形小切手につき公示催告が許されるかについて、以下、検討する。

1  民訴法七七七条一項、七七八条一項によれば、その所持する手形・小切手を盗取された者は、最終の所持人として公示催告を申し立てることができるが、このことは約束手形用紙または小切手用紙に振出人として署名または記名押印をした後、これを流通に置く前に盗取された者についても同様であると解される。

けだし、この場合には、公示催告の申立人がつづいて除権判決を得ても、民訴法七八五条にいう証書に因れる権利を主張しうる効果(いわゆる積極的効力)を取得することはできず、もつぱら盗取された手形・小切手の手形・小切手としての効力を失わせる効果(いわゆる消極的効力)を得るだけのことであるが、手形・小切手の流通証券としての性格に鑑みれば、流通に置く意思をもつて約束手形用紙または小切手用紙に振出人として署名ないし記名押印をした者は、右手形・小切手が盗難に遭い、自己の意思によらずに流通に置かれた場合でも、右手形・小切手の所持人に対し、悪意または重大な過失によつて同人がこれを取得したことを主張立証しない限り、手形・小切手上の責任を免れないものであり、その場合に、右手形・小切手に署名ないし記名押印をしたがそれを流通に置く前に盗取された者は、右手形・小切手の無効を宣言する除権判決の言渡後に右手形・小切手を取得した所持人に対して手形ないし小切手上の責任を負わないという内容を持つ前記除権判決の消極的効力を得ることについて、法律上の利益を有するというべきであり、その前提としての公示催告申立権も認めるのが相当だからである。

2  しかしながら、振出人の署名ないし記名押印のない約束手形用紙または小切手用紙を銀行に届出済みの印章とともに盗取された者についての公示催告申立権については、消極に解さざるをえない。なぜなら、なるほどこの場合にも、右印章の冒用により、右手形用紙または小切手用紙上に振出人として右被盗取者の記名押印が顕出され、それが流通に置かれる可能性がなくはないが、たとえそのような事態が生じたとしても、右1の署名ないし記名押印をした場合とは異なつて、被盗取者が手形行為ないし小切手行為を行つたとみる余地はないのであるから、偽造者と被盗取者との間に表見代理が成立するといつたようなよほど特別の事情のない限り、被盗取者が手形上または小切手上の責任を負うことはない。したがつて、このような場合についてまで、被盗取者に除権判決を受けさせる法律上の利益は認められないからである。

3  ところで本件では、抗告人は、約束手形用紙および小切手用紙にゴム印による記名はしたが、さらに押印をしてそれを流通に置かないうちに盗取されたというのであるから、右2の場合とは記名だけは済ませているという点において異なつており、1の場合に準じて抗告人の公示催告申立が許されるべきでないかが問題となる。

そこでこのことを、右1および2の場合と同様に抗告人が何らかの手形・小切手上の責任を負担する危険性の観点から検討すると、まず手形法八二条および小切手法六七条は記名押印を署名と同様のものとみなしているのであつて、記名だけがされていても、手形・小切手上に署名がされたのと同じことになるものではない。もつともこの場合でも、欠けている押印がなんぴとかによる印章の使用によつて顕出され、記名人からその者に対する押印顕出の授権がなされたとみなされうる事情が存在するか、または少なくともそのような外観が作出され、その授権の外観を信頼した者を保護すべき事情があるときは、記名のみをした者が記名押印の両方を行つたのと同様の責任を負わされることが考えられなくはない。

しかしわが国の現実の取引においては、記名押印のされた手形・小切手について、その決済口座が置かれた銀行が記名押印の真正を確認する手段としては、通常、押印部分を重視してそれが銀行に届け出のあつた印章と同一であるかどうかを調べる方法が採られているが、このことは押印が記名に比して、はるかに個性的かつ本質的なものであつて、印章の所持者の意思に基づかないでたやすく押印されることはないと考えられていることを示すものにほかならない。そうすると手形・小切手上に記名押印をした者が当該有価証券上の責任を負う根拠は、端的にいつて、その者の意思に基づいて押印したことに求められるというべきである。したがつて押印のみをしたが記名はしなかつた者は、その手形・小切手について記名(のみ)は他の者の権限を授与したものと比較的たやすくみなされて、押印者が手形・小切手上の責任を追及される危険性の大きいことを認めなければならないが、逆に記名のみを行つたにとどまり押印をしていない者は、押印のみを行つた者に比較して、その手形・小切手の記名押印の外観作出に関与した程度も低いものであり、手形ないし小切手上の責任を追及される危険性も現実には極めて低く、前記2の手形用紙または小切手用紙と届け出済みの印章を同時に盗取された場合と実質において異なるものではないと考えてよい。

したがつて、押印だけがある状態で流通に置く前に盗取された手形・小切手については、前記1の場合に準じて被盗取者に公示催告申立権を認める余地があるとしても、本件手形小切手のように記名だけして押印をしたい状態で流通に置く前に盗取されたものについては、被盗取者に公示催告申立権を認めることはできないものというべきであり、そうすると本件においても抗告人に除権判決を受けさせるべき利益およびその前提としての公示催告申立権はないと解するのが相当である。

三よつて、抗告人の本件公示催告の申立を却下した原決定は正当であつて、本件抗告は理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官岨野悌介 裁判官富田守勝 裁判官西井和徒)

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